完全な知性と不完全な僕の思考

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も全て見えているであろう。

心情と就活記と生活記

Why am I fed up with creativity?

僕はクリエイティビティという言葉が嫌いだ。

というか、クリエイティブと、その周辺の概念自体が嫌いだ。

 

今までは、自分がそれを嫌っていることに理由なんてないと思っていたけれど、

いま、ふと、そしてはっきりと思い出した。

 

あれはたしか小学校三年生とかそれぐらいのとき。

 

小学校の図工の時間で、

朗読される物語を聴いて、その情景を絵にする、という授業があった。

 

物語の内容は、大まかにしか覚えていないが、

青年が夜中から明け方に、森の中にある湖で、龍と出会い会話する、という内容だった。

物語の大半は夜中で、ラストでようやく明け方、という時間設定だけは確かだ。

 

 

僕は、話を聞いて、絵が嫌いではなかったが、得意ではなかったので、

人より時間をかけて描き上げた。

 

書き上げた後、先生の所に見せに行くと、

大げさに驚き、教室中に聞こえる声で、

「あなたの絵は暗すぎる。」と一言言い放った。

お話しを聞いた限り、青年と龍が会話していたのは、夜中だった。

僕は、濃紺の空に星を描いていた。

一方、周りを見渡すと、なぜか空を水色で描いている子供たちが多かった。

会話していた時点では、夜中のはずなのに。

 

そして先生は、僕よりも早く書き上げて遊んでいた女子を呼び、

「○○(僕)君の絵を直してあげなさい。」と指示。

 

その女の子は、したり顔で、

「あなたの絵はここがダメなのよ。」と上から目線の発言。

僕の濃紺の空の上に限りなく白に近い水色の絵具を塗りつぶした。

彼女は、結構なおてんばというか、脳内お花畑自己中人間だったので、

僕の絵のほとんどを自分の好きなように塗り替えていった。

 

お話をちゃんと聞いて、僕なりの忠実に再現した作品、

僕の創造性は、簡単に否定され、

「明るい絵が好ましい」という、

教育上の理由なのか、その教師のルールなのかよくわからない圧力で塗りつぶされた。

 

子供に創造性を育むのが、小学校における図画工作の授業の目的のはずなのに、

結局は、その教師一人の頭の中の押し付け。

 

結局、出来上がった作品は、

僕の書いた部分はほとんど残っておらず、

女の子の描いたもので埋め尽くされ、

その教師も「うん。これでずいぶんよくなった!」だのなんだのと、のたまった。

 

 

この出来事から、僕は絵というもので自分の考え、想像を表現しても、

また否定されることが怖くなり、

美術の時間は、ほとんど書いてるふりをしつつ時間をつぶすだけだった。

 

この経験から、美術や芸術系の授業に期待をしなくなったし、

そもそもクソで程度の低いものとしか認識しなくなった。

 

十人十色の歓声があるはずなのに、自分を表現しても否定される授業よりも、

確定した答えがあり、正解を出しさえすれば否定されない、

数学や英語などの授業の重要性に気付いた。

 

だからこそ、勉強ができるようになって、今の僕があるのかもしれない。

 

だからここに、高らかに、お礼を述べよう。

 

四国のT県で小学校教諭をし、美術を教えていた酒井先生。

あなたのクソみたいな授業のおかげで今の僕があります。

あなたのクソみたいな思考の押し付けで、

美術みたいなゴミのような学問に時間を費やす必要がないと気づけました。

謹んでお礼申し上げます。

おかげで僕は自身の創造性を発揮することをひどく恐れるようになりました。

できるだけみじめに破滅して死んでください。

 

あと、僕の絵を塗りつぶしてくれたFさん。

意味の分からない、というか意味をなさない

英語もどきの文章をFacebookに投稿しているのをいつも嘲笑ってます。

今も十分落ちぶれていることは存じておりますが、

今よりもっと落ちぶれて僕を楽しませてください。